「食」と「農」のエッセイ

日本ペンクラブ会員の著名人によるリレーエッセイ

第79回 松岡ハリス 佑子さん
ないものねだり

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 会議通訳者として毎年6月にジュネーブに長期滞在するようになったのは、1981年のことだ。自炊生活で困ったのは、食材が日本とは違うこと。今でこそ日本の食材が多く入手できるようになったが、ないものは料理できない。ゴボウ、山芋、大葉、ニラ…ない。手に入る野菜もやたら大きくて、細身の葱やみずみずしい大根…ない。キャベツ…硬くてサラダにもできない。
 ないものは食べられない。それ以外にも問題がある。食べ物の翻訳は難しい、というより不可能かもしれない。目の前にある食べ物なら説明できるが、ハリー・ポッターの物語には、見たことも食べたこともないものが、どんどん出てくる。著者のJ・K・ローリングが貧乏だった時、食べたいものを書き連ねたのではないかという説もある。辞書を引いても訳語がなく、たとえあっても説明しなければ物語の読者には通じない。
 第一巻「賢者の石」に、ニッカーボッカー・グローリーという甘いものが出てくる。ケンブリッジ大学で学んだ博識の友人、アリソンに聞いても知らないという。英日辞典に日本語訳は出ていない。日本にない食べ物は訳せない。アリソンが懇意にしているレストランで、シェフに頼み込んで作ってもらったら、背の高いシャンパングラスに山盛りのなにかが出てきた。アイスクリームと生クリームをたっぷり使ったフルーツのデザートだった。
 日本の食材も翻訳を嫌う。ゴボウの英訳はburdockだが、訳だけでわかってくれる英米人はいなかった。私はゴボウが好きで、生ゴボウをスイスで探したが、ない。最近では乾燥ゴボウが売られているが、きんぴらごぼうを作るにも、乾燥ゴボウでは歯ごたえも香りもない。つくづく野菜は、それぞれの土地が育ててくれる食材だと納得した。
 残念ながら野菜の苗や種も、検査をしないとスイスには持ち込めないものが多いし、持ち帰ったとしても、育たないかもしれない。子供のころ、父が農業高校の先生で、家の庭には広い野菜畑があり、いつでも新鮮な野菜が食べられたのが懐かしい。
 ないものねだりはもうやめて、スイスの土を愛し、その土に育つ野菜を愛するようにしよう。

イラスト:はやしみこ

松岡ハリス 佑子(まつおかはりす ゆうこ)

同時通訳者、翻訳家。スイス在住。ICU卒業後、海外技術者研修協会常勤通訳。モントレー国際大学院大学(MIIS)客員教授として通訳教育の経験も深い。ハリー・ポッター全7巻の翻訳者として講演も多く、エッセイストとしては『ハリー・ポッターと私に舞い降りた奇跡』(NHK出版)を上梓。2009年にはパリで「ハリー・ポッター翻訳者会議」を開催。日本とスイスとに読書文化推進のための非営利団体(MMBHとMLF)を設立し、東西文化交流に力を入れている。

松岡ハリス 佑子(まつおかはりす ゆうこ)
『ハリー・ポッター全7巻〈25周年記念特装版〉』静山社
『ハリー・ポッター全7巻〈25周年記念特装版〉』
静山社
日本ペンクラブ

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