日本にも昔から有名なロシア料理店はいくつもあって、美味しく豪華な料理を出してくれる。でもロシアの民衆の食生活はもっと質素なものだった。それは今でもよく使うことわざによく表れている。
例えば「シチーとカーシャは私たちの食べ物」。ロシア語では「シチー・ダ・カーシャ・ナーシャ・ピーシャ」といい、語呂がいい。「シチー」はキャベツを基本とした素朴なスープだ。一方カーシャは麦、ソバの実などを水や牛乳で煮込んだお粥である。これは今でもロシア人の朝食の定番だ。
シチー、カーシャと並ぶ、ロシアの食のもう一つの基本はなんといってもパンだろう。「パンはすべての頭(かしら)」という言い方があるほどで、すべての食べ物の中でもっとも大事なものと考えられてきた。ロシアで昔から好まれていたのは、ライ麦から作る黒パンである。少し酸味があって、硬くもっちりした食感なので、最初はちょっと面くらうが、慣れるとクセになる。バターを塗るとライ麦の香りが引き立ち、それだけでもごちそうと思えるくらい美味しい。
パンが出てくる決まり文句には、「パンと塩」というものもある。これは客をもてなす気持ちを表したものだ。手の込んだ高級な料理ではなく、人間の命にとって最も大事なシンプルなもので客を迎えるのが、一番心のこもったおもてなしとされる。「なんだ、パンと塩しか出してくれないのか?」などと勘違いしないように。今でもロシアでは外国からの賓客を出迎えるとき、美しい民族衣装を身にまとったロシア女性がパンと小皿の塩を刺繍入りの布に載せて差し出すことがある。
おもてなしの精神はもちろん日本人だけの専売特許ではない。もともとロシアの庶民は家に来た客を神様だと考え、料理の重みで「食卓がたわむほど」、「かまどにあるものは何でも全部食卓に」出して歓待した。私もかつて旧ソ連時代にロシアの友人の家を訪ねると、いつもそういうもてなし攻めにあった。彼らとて暮らしは決して楽ではなかったのに。私の心の中でロシアはいつまでも、そういう温かく優しい人たちの国だ。現在ロシアは愚かな権力者が引き起こした戦争のせいで、恐ろしい国にしか見えなくなってしまったのが悲しい。

沼野充義(ぬまの みつよし)
1954年東京都生まれ。ロシア文学者、文芸評論家、東京大学名誉教授。著書に『世界文学論―徹夜の塊〈3〉』(作品社)、『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』(講談社)、共編書に『ロシア文化事典』(丸善出版)、訳書にアントン・チェーホフ著『新訳 チェーホフ短篇集』(集英社)スタニスワフ・レム著『ソラリス』(早川書房)、ヴィスワヴァ・シンボルスカ著『終わりと始まり』(未知谷)など。

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