第16回 盛田隆二さん

梅干しとステーキ

 昭和20年4月、高等小学校を卒業した母は14歳で栃木県から単身上京し、新宿の国鉄病院の看護婦養成所に入った。東京大空襲の3週間後のことだ。
 入学式の翌日から都内各地にB29が来襲し、5月25日には新宿に焼夷弾が降り注ぎ、看護婦寮が全焼する。母は患者を担架に乗せて地下室に運びながら自らの仕事に強い使命感を抱いたに違いない。それ以来50年にわたって看護師として働き続け、還暦を過ぎてパーキンソン病を罹患してからも訪問看護ステーションの開設に向けて尽力したが、開設後1年で病状が急速に悪化し、入院を余儀なくされた。思い出されるのは、喉に穴を開けて気管カニューレを装着された母が50音を書いた厚紙を一文字ずつ指で差す姿だ。
〈う、め、ぼ、し、た、べ、た、い〉
 梅干しなら紀州だろう。僕はデパ地下の売り場を歩き回り、はちみつや利尻昆布の出汁で漬け込んだ紀州梅を選んだ。母は肉厚たっぷりで皮が薄くていかにもジューシーな梅を一粒つまんで口に含み、うっとりと目を閉じた。
 スピーチカニューレに換えてもらって発声訓練をすれば、また話せるようになると母は最後まで希望を失わず、握力を保つために寝る時もハンドクリップを握りしめていたが、運命は残酷だ。紀州梅に舌鼓を打った翌々週、心肺停止に陥った。享年71だった。
 残された父はまもなく認知症の症状を呈し始め、91歳で亡くなるまでの10年余り、僕は父の介護に明け暮れることになるが、父と母が出会ったのは新宿の国鉄病院だった。戦地から復員し、負傷した耳の治療に訪れた時、母は耳鼻科で看護婦見習いをしていた。
 母の最後の晩餐が梅干しなら、父はステーキだろう。30分前に食べたばかりなのに、昼飯はまだかと怒り出すような父だったが、90歳の誕生日祝いのレストランで米沢牛の180グラムのサーロインを二枚ぺろりと平らげた。「母さんにも食べさせてあげたかったね」と言うと、「いや、気管に入ったら大変だ」と父は顔をしかめた。まるで母が生きているような口ぶりだったので、早いね、来年はもう13回忌だ、と言おうとした言葉を呑み込んだ。

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イラスト:今井夏子
荻原 浩

盛田 隆二(もりた りゅうじ)

1954年東京都生まれ。90年のデビュー作『ストリート・チルドレン』で野間文芸新人賞候補、92年『サウダージ』が三島由紀夫賞候補。18年勤務した「ぴあ」を96年に退社し、作家専業に。代表作は30万部のロングセラー『夜の果てまで』。他に『二人静』『いつの日も泉は湧いている』『蜜と唾』『父よ、ロング・グッドバイ 男の介護日誌』など著書多数。

「焼け跡のハイヒール」 祥伝社
「焼け跡のハイヒール」 祥伝社
焦土と化した東京で出会い、戦後を生き抜いた両親。2人はいかなる人生を歩んできたのか。戦前、戦後から平成へ、100年史を辿った先にたぐり寄せる、はかなくも確かな一条の光。

2020.04更新

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