第23回 冲方 丁さん

命と食と

 神聖とは何か。家族への愛、宗教的な教義、大自然への畏敬など、これが神聖だとする原体験は人により異なるだろう。そして私の場合、幼少の頃から食こそが神聖であった。
 食は命を奪うことである。そして、おのれの命をつなぐことである。命のやり取りを神聖とする根拠は、犠牲となった命への感謝である。
 私は、幼少期に父の仕事の都合でネパールに住んでいた。当地のダサインというお祭りでは、山羊や水牛の首を切り落としていけにえとし、その血で乗物や道を浄める。街路には首のない獣たちが並び、その肉を大勢で食す。初めてその光景を見たときはショックで、しばらく肉を食べることができなかった。だがやがて食欲に耐えかね、食卓に出された肉を口にした瞬間、理屈を通り越して、これが神聖というものだという感覚に打たれた。命の実感に貫かれたといっていい。捧げられた命への途方もない感謝の念が込み上げ、涙が流れた。以来、食は私にとって神聖そのものとなった。
 逆に、禁忌というものも食で知った。同地に根強く残るカースト制度では、下層民が調理したものは不浄なため上層民は食べてはならないとされる。これは貧しい者には食材を効率よく加熱するすべがなく、熱による殺菌が不十分なため食中毒を起こす可能性が高かったからだと教わった。ちなみに最も浄い料理は揚げ物である。どれほど美味でも人の命を奪いかねないものは不浄として退ける。イスラム教徒が豚を食べない理由も同じだという。このことも、神聖という体験の裏返しとして、深く心に根づいている。
 他方、穀物や野菜はどんな国でも尊ばれる。日本では五穀が神々に捧げられてきたが、そのことも理屈抜きで納得できる。ネパールから帰国した私は、日本の田圃の美しさに感動し、再び神聖な感覚に打たれた。青々とした田は、まるで大地が命を譲ってくれているようだった。食卓に出される米の美味さが、稲の命を実感させてくれた。
 こうしたことが私にとっての神聖である。昨今はコロナ自粛でデリバリーが極端に増えた。調理の現場すら見ない。だがその食が運ばれてくる以前に捧げられた、数多の命の神聖さは、決して忘れまいと心定めている。

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イラスト:今井夏子
江上 剛

冲方 丁(うぶかた とう)

作家。1977年岐阜県生まれ。96年、大学在学中にデビュー。『マルドゥック・スクランブル』で日本SF大賞、『天地明察』で本屋大賞など5冠、『光圀伝』で山田風太郎賞を受賞。最新作は『戦の国』。

「戦の国」講談社文庫
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2020.11更新

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