第29回 朝井まかてさん

うっかりの野菜

 先生は時々、思い出したように溜息をつく。
「時代小説が好きやのに、落ち着いて読まれへんのですよ」
「おやおや、例の持病が出るんですか」
「そう。我ながら困った読者ですわ」
 先生は日本史の研究者で、国立大学の招聘(しょうへい)教授だ。地元が大阪というご縁で親しくさせていただいている。先生の持病とは、本人いわく”考証の虫”のことだ。たとえば幕末が舞台の小説に玉葱が登場したら、もうそれだけで「ちょっと待ったあ」と虫が跳(は)ねる。日本での食用は明治何年からだったかと、調べずにはいられないらしい。
 私も身に覚えがあるので、「お気の毒」と苦笑する。子供の頃からの植物好き、食いしん坊でもあるので、お正月の葉牡丹(はぼたん)を目にすればキャベツの味を思い出してしまうのだから風情(ふぜい)も台無しだ。キャベツしかりアスパラガスしかり、初めは観賞用植物として日本に移入された野菜である。むろん医食同源、蕗(ふき)や菊のように薬用として入ってきた植物の方がはるかに多く、歴史も古いのだが。
 小説でも食べる場面をよく書く。長屋暮らしの職人や大店(おおだな)のあるじ、果ては江戸城や吉原遊廓の台所に立ち入り、お膳の風景を描く時間はとても楽しい。井原西鶴(いはらさいかく)が主人公の『阿蘭陀西鶴(おらんださいかく)』という作品では、盲目の娘に包丁を遣わせてみた。江戸時代の大坂が舞台であるので、当時の地もの野菜を俎板(まないた)の上にのせている。
 冒頭は、娘がさっと茹で上げた白菜をざくざくと切るシーンだ。ある読者が、「あのハクサイのおいしそうなこと」と褒めてくれた。私は頭の回転がゆっくりしているのでウンウンとよろこびながら、後になってハクサイなんて登場させたかしらんと首を傾(かし)げた。日本への移入は明治初期、全国的に栽培されるようになったのは昭和である。
 だが私はとかく、うっかりの多い女だ。蒼(あお)くなってページを繰ってみた。くだんの白菜には、ちゃんと「しろな」とルビが振ってある。ほっと胸を撫で下ろすも束(つか)の間(ま)、大阪の野菜圏でない土地の読者はハクサイと認識してしまうことに気がついた。私は「白菜」ではなく、「しろ菜」と表記すべきであったのだ。
 愛してやまぬ野菜はこうしてしばしば、うっかり、しくじりの種になる。

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イラスト:今井夏子
朝井 まかて

朝井 まかて(あさい まかて)

1959年大阪府生まれ。2014年に「恋歌」で直木賞を受賞。同年「阿蘭陀西鶴」で織田作之助賞、2015年「すかたん」で大阪ほんま本大賞、2016年「眩」で中山義秀文学賞、2017年「福袋」で舟橋聖一文学賞、2018年「雲上雲下」で中央公論文芸賞、「悪玉伝」で司馬遼太郎賞、2020年「グッドバイ」で親鸞賞を受賞。近著は「類」。

「類」集英社
「類」
集英社

2021.05更新

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