第40回 桐野夏生さん

リンゴ

 私の母は食事が終わるやいなや、果物の皮を剥き始める人だった。食べ終えたばかりの飯茶碗に、リンゴや梨や柿などの皮を入れ、果物ナイフで家族に一片ずつ渡してくれるのである。乱暴と言えば乱暴だが、旬の果物をあれこれ食べた思い出は得難いものだった。
 しかし、子供の私は、母に「リンゴを持ってきて」と言われるのが億劫だった。その頃の我が家は、北向の納戸にリンゴ箱やミカン箱が置いてあった。その部屋が寒くて薄暗く、リンゴ箱の中に手を突っ込んでリンゴを探すと、籾殻が手の甲にちくちくと刺さって痛痒いのだ。やっと二個、三個とリンゴを見つけて籾殻から手を抜いても、しばらく痒くて不快だった。リンゴ箱も見るからに粗い木で出来ており、すばりが刺さったこともある。
 当時よく食べたリンゴの品種は、「スターキング・デリシャス」。暗い赤い色をした大ぶりのリンゴで、ふたつに割ると蜜がたっぷり入っているのがわかる。最近は流行らないのか、「スターキング」をあまり見なくなった。
 今の主流は、「ふじ」だろうか。「ふじ」と言えば、私の親しい友人が岩手の人で、秋口になると必ず郷里からリンゴを取り寄せて送ってくれた。ほとんどが「ふじ」で、たまに「王林」や「ぐんま名月」も混じっていた。おかげで、新鮮なリンゴをあれこれと楽しむことができたのだが、その友人は三年前に亡くなり、我が家にリンゴの箱が届くことはなくなった。
 ある日、スーパーに行ったら、リンゴフェアなるものをやっていて、色とりどりのリンゴが並べられていた。その中に、初めて見る青リンゴがあった。光沢があって、ごつごつした愛らしい形をしている。早速買って食べたら、予想通りの味だった。酸味があって硬く、うまい。その名は「はつ恋ぐりん」。やはり、「グラニー・スミス」由来らしいが、リンゴの品種がどんどん増えてゆくのは、とても楽しいことだ。亡き母と、亡き友人に、「はつ恋ぐりん」の感想を聞いてみたいものだと思った。

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イラスト:今井夏子
松本幸四郎

桐野夏生(きりのなつお)

小説家。1998年『OUT』で日本推理作家協会賞、99年『柔らかな頬』で直木賞、2003年『グロテスク』で泉鏡花文学賞、04年『残虐記』で柴田錬三郎賞、08年『東京島』で谷崎潤一郎賞、11年『ナニカアル』で読売文学賞等、受賞歴・著書多数。21年に日本ペンクラブ会長に就任。

「燕は戻ってこない」集英社
「燕は戻ってこない」集英社

2022.04更新

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