第34回 神田松鯉さん

十日夜とおかんや

 昭和17年生まれの私は戦後の食糧難の時代に育った。小学生のころは日常は麦飯だった。米七分に麦三分位の割合だったと思う。
 たまに真っ白なご飯が出ると甘かった。大人たちはこれを銀シャリと呼んで尊んだ。
 代用食の薩摩芋もよく食べた。農林四号は中身が黄色でホクホクして栗のような味がした。農林八号は紫色の中身で水っぽかった。70年も前のことを今でも覚えているから不思議だ。お袋が4球スーパーラジオで「君の名は」を熱心に聴いていたころの事である。
 前橋市の郊外に家があり、道の向こうには進駐軍のキャンプがあって、陽気なヤンキーの声がいつも聞こえてきた。
 当時の子供のおやつは乾燥芋が多く、夏には袋を持って稲に群がる蝗(いなご)を取りに行き、持って帰るとお袋が鍋に入れ素早く蓋をして炒ってくれて、それが菓子代わりになった。
 群馬は養蚕県だから桑畑も沢山ある。桑の実をどどめと言って、色が赤から紫色になると甘くてうまい。野鳥の恰好の餌にもなるのだが、私たちは口中を紫に染めながら小鳥と一緒にどどめを食べた。
 隣りは裕福な農家で、そこのお爺さんが子供好きで日向ぼっこをしながら、いろいろな話をしてくれるのだった。毎年十日夜(とおかんや。旧暦十月十日に行なう刈り上げ行事)の日になると、お爺さんは近所の子供達を集めて、かねて用意の藁づつを棒の先にぶら下げた藁鉄砲を各自に持たせて、広い庭を「とおかんや、とおかんや」と唱えながら地面を叩かせるのだ。もぐらの害の除去と同時に稲の収穫を感謝する行事である。今になって考えるととおかんやと唱える節は、童謡「通りゃんせ」や「ひらいたひらいた」の歌い出しと同じ節だった。それが済むとお爺さんは子供達に餅やぼた餅を腹一杯食べさせてくれるのだが、子供達の目当ては実はこれだった。だから子供達は十日夜の日を首を長くして待っていたのだ。飽食の時代と言われる現代だが、かつて日本にはこんなにも真っ白なご飯や餅やぼた餅にあこがれる時代があった事を忘れてはなるまい。

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イラスト:今井夏子
木内 昇

神田 松鯉(かんだ しょうり)

講談師。昭和45年二代目神田山陽に入門。52年真打昇進。平成4年三代目神田松鯉を襲名。各寄席に出演しつつ長編連続講談の復活と継承に積極的に取り組み、講談の保存と後進の育成に努めている。日本講談協会名誉会長・落語芸術協会参与。昭和63年芸術祭賞受賞。令和元年重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。

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2021.10更新

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