第36回 角田光代さん

「おいしい」の裏側

 猫を飼ってはじめて、猫の顔がそれぞれいかに個性的であるかを知った。それまでは、猫はただの猫だった。雀はぜんぶ雀で、見分けられないのと同じだ。もしかしたら雀も、一羽を飼えば、すべての鳥の顔が見分けられるようになるのかもしれない。
 食もおんなじで、興味を持つまでは、私にとって食は概念に近かった。食べるものの重点は味つけにあって、素材に考えが及ばず、おいしいまずいの区別しかなく、おいしいものはたいがい茶色で、色とりどりの野菜はきれいだけれど義務で食べるもの、のようにとらえていた。
 食べることに興味を持ちはじめたのは30代になってからだ。猫を飼うような、わかりやすいきっかけがあったわけではない。たんに世界が広がったんだと思う。仕事がじょじょに増えて、仕事相手の人たちが豊富になって、彼ら彼女たちがさまざまな飲食店に連れていってくれたり、食情報を教えてくれたりして、おいしいものってものすごくおいしいんだ、とはじめて気づき、もっともっとおいしいものを知りたい、食べたい、飲みたい、と貪欲になったのだろう。
 そうなるともう、肉はかつ丼やステーキといった一品ではなくて、赤牛だの短角牛だのアグー豚だのチェリーポークだの、銘柄、部位によって味や風味がまったく異なることを知り、米にも銘柄があることを知り、特定の季節にしか食べられない旬の野菜があることを知り、一年じゅう手に入る野菜でもそれぞれいちばんおいしい季節があることを知り、そうした素材の個性を活かすことに取り憑かれている料理人がいることを知る。
 幸運なことに、そのような個人的貪欲期に、食にかんする仕事の依頼が多かった。各分野の専門家や料理人に話を聞き、ときには地方に赴いて野菜や果物の栽培、ワインや日本酒の製造の現場を見せてもらい、作り手の話を聞く。超のつく高級料理でなくとも、だれもが知っている、たとえば生姜焼きのような一品でも、一皿にたどり着くまでには途方もない人手と熱意と工程とこだわりとが結集されていることを知った。「おいしい」というたった一言の裏側には、おそろしいまでの道のりがある。それを知ると、おいしいと思うことが、そのまま感謝の念になる。

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イラスト:今井夏子
角田光代

角田 光代(かくた みつよ)

作家、1967年生まれ。
1990年「幸福な遊戯」でデビュー、2005年「対岸の彼女」で直木賞受賞。
近著に現代語訳「源氏物語上・中・下」など。

「源氏物語」(上巻、中巻、下巻)河出書房新社
「源氏物語」(上巻、中巻、下巻)河出書房新社

2021.12更新

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